法句寺 -浄土真宗 大谷派-

人と人をつなぐお寺「法句寺」

真宗大谷派 法句寺兼六園の近くにある「浄土真宗大谷派 法句寺」は、人と人とのつながりを大切にし、出会いと語らいの場の提供や、催しの開催等で心の絆を深めております。
時期にもよりますが、お寺の周りには大輪の薔薇が咲き乱れ、美しい光景が広がります。 是非一度、法句寺においで下さい。」 ”また、1993年に建物が立直され、2003年には心泉会館(お斎の間、宿坊・事務所)が増築されました。2015年にはセレモニーホール心泉(参拝上・室内納骨安置所・シャワールーム付宿坊)が建立され、より足を運んで頂きやすい場所となりました。心泉会館は、法句寺門信徒および心泉会の方々の葬儀(家族葬など)、永代供養、宿坊、語らいの場としてご利用いただいております。

法句寺を設立した「北方心泉」とは?

北方心泉北方心泉の書2

心泉は浄土真宗大谷派、常福寺十四代目住職で明治時代を代表する書家の一人です。 本名は「蒙」ですが、「心泉」又は「月荘」「小雨」「雲迸」「文字禅室主人」「聴松閣主人」などを用いました。
東本願寺の布教師として中国上海に渡り、当時流行していた北派書風に一早く学び日本に紹介したことは有名です。又、中国古来から存在する金属器・石刻に刻まれた文や絵を研究する学問「金石学」に関心を持ち、後に書に影響しました。書風は篆隷の書を行書や草書のように自由に書くという意味を込め「篆草合体の自由奔放」と称され確立。
このことで心泉は、この時代の書家の中でも一頭地を抜いた存在になったのです。 ※右の写真は心泉本人と書の一部。

嘉永3年
(1850年)
4月28日に加賀国の金沢(現在の石川県金沢市)の常福寺の住職の子として誕生。 。
明治元年
(1868年)
常福寺14代目住職となる。
明治10年
(1877年)
東本願寺支那布教事務掛となり、留学生を引率して清の上海に赴く。
清に滞在中に胡鉄梅ら清の文人と交流を深め、金石学を学ぶことで書に影響を受ける。
明治32年
(1899年)
再度清に渡り、南京に金陵東文学堂を設立するが、義和団の乱により帰国。 延べ15年を大陸で過ごした。
その後、「法句寺」を建立する。
明治35年
(1902年)
東本願寺の改革運動に加わったことにより、住職を罷免され僧籍からも除名される。 しかし、後に名処分は取り消される。

時代を見越し「永代供養墓 心泉」を設立

「永代供養墓 心泉永代供養墓設立10周年記念法要

近年、時代の流れや、個人・家族のライフスタイルの変化により、 お墓の新たな形として「永代供養墓(えいだいくようぼ)」のニーズが増えています。
しかし法句寺は、すでにこの時代の流れを10年以上前に見越し「永代供養墓 心泉(えいだいくようぼ しんせん)」を平成9年7月に設立。平成19年には永代供養墓設立10周年記念法要も執り行い、テレビのニュースとして取り上げられ話題になりました。
永代供養墓 心泉」とは、現代にマッチする新しいタイプのお墓です。お墓の後継者がいない方や、遠方でなかなかお墓参りできない方に代わり、法句寺が責任を持って永代にわたりご供養・維持管理致します。 伝統的なお墓同様に、365日24時間、献花、線香をあげてお墓参りが出来、月に一度法句寺が読経致します。
又、「心泉」は四季折々の古都の風情を色濃く残す金沢を麓に見下ろす大乗寺山霊苑内にあり、永遠の安らぎの場所としてお奨めします。
「永代供養墓 心泉」を詳しく知りたい方はこちらでご案内しております。
是非ご覧下さい。
>> 有限会社 心泉の丘サイト

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